祭りと遊びのまち『大門・浜松町』で、丸山博行さんと出会う。
77年間このまちに暮らし、15町会を束ねる愛宕二の部地区連合会の会長を務めている丸山博行さん。「まわりは瓦礫とバラックばかりだった」という時代から、「麻布台ヒルズにも知り合いがいる」という現在まで、大門・浜松町エリアを遊び倒してきたそうです。少しずつ変化するまちとともに、丸山さんの楽しみ方も柔らかく変化します。
世代を超えて、まちをつくる!
旧芝区・旧麻布区・旧赤坂区が港区に統合された1947年に生まれ、以来ずっとここにいます。両親は宮大工の出身で、愛宕地区の建築組合の組合長をしていました。当時は我が家で組合員の健康保険証を預かっていたから大勢出入りしていてね。今でも同級生や先輩後輩など、昔から知った顔に囲まれて暮らしています。
かつては自宅の1階でカフェをしていました。18、19の子がバイトしていて、「丸山さんのところは不良のたまり場か」と言われたり(笑)。60で店を畳んだタイミングで芝大門中二町会の町会長になり、66歳から愛宕二の部地区連合会の会長を務めています。今では、いい歳になったその子たちや親御さんたちと立場を変えて付き合っています。この地域で生まれ育ったいろんな世代の人たちと一緒にまちをつくっているかんじですね。
まちの変化
戦後は何もない場所でしたよ。今の世界貿易センターがある場所は進駐軍の拠点で、ミリタリーポリスにこどもらが「ギブミーチョコレート」と群がっていました。あとは見渡す限り、瓦礫とバラックだけ。その後、近所にスポーツセンターのスケート場ができ、その後日本初のマンションである日活アパートができました。このあたりは自然豊かで雑多な盛り場の雰囲気もあり、大きい子から小さい子まで連なって日暮れまで遊んでいました。流行したローラースケートで通学していたこともありますね。
今東京タワーがある場所は鬱蒼としたジャングルで、「紅葉谷」といいました。『金色夜叉』の著者である尾崎紅葉はうちの町会の出身なんですが、この地名からペンネームを名付け、金色夜叉の名場面の舞台にもなっているとか。昭和33年に東京タワーができた時は嬉しかったね。そうそう、東日本大震災で曲がってしまったタワー頂上部のアンテナ付け替え工事の時に、筒形の支柱の中から野球ボールが見つかった、と当時ニュースになりました。そのボールはきっと僕のです。建設現場の近くでよく野球をしてたから(笑)。
ワイルドな下町の文化の中で育つうちに、風景はゆっくり変わっていきました。今見ると大きな変化だけれど、急に変わったわけじゃない。そして新しいものも面白い。世界貿易センターの方々と付き合いができたことで、自分の世界も広がったようにね。
大門・浜松町の魅力!
お寺や神社が多いので、1年を通じてお祭りが多いですね。4月にある増上寺の「御忌」法要は、全国の浄土宗の住職が増上寺に集まって行列をつくる風景が圧巻ですよ。5月には「烏森神社例大祭」があり、9月の「芝大神宮だらだら祭り」も盛大です。11日間もやってるからだらだら祭りといい、大門の交差点から30基ほどの神輿が出る連合渡御は見ものですよ。わたしはずっと半纏を着てウロウロ飲み歩いています。お祭りを見に来る外国の方に半纏を貸してあげると喜んで着てくれますね。海辺で音楽を楽しむ「竹芝夏ふぇす」や春開催の「竹芝みなとフェスタ」は企業の人たちが仕切ってくれるのがありがたいです。
このまちは平日の方が賑やかですね。外国人や若い人と居酒屋で飲み交わすのは楽しいひとときです。でも自慢話はダメ、10に1くらいまでにしないと(笑)。MICEで来られた方々とも居酒屋でお会いしたいですね。こっちは古いことしか分からなくて、新しいことを教えてもらいたい。お互いに知恵の交換ができると面白いなと思います。
基本情報
【丸山博行さん】
愛宕二の部地区連合会会長
1947年東京都芝区生まれ。銀座の料理店で働いた後、38歳から60歳まで自宅にてカフェを運営。その後、芝大門中二町会会長、数年後に愛宕二の部地区連合会会長を歴任。愛宕防犯協会副会長、芝防火防災協会副会長、芝大神宮宮総代、芝東照宮宮総代なども務める。